
大正13年(1924)に37年の生涯を閉じた、水戸市出身の洋画家中村彝…若くして肺結核に冒され、絶えず死と隣り合わせありながら、描くことへの欲求に突き動かされるかのように短い生涯を駆け抜けました。その作品は現在に至るまで高く評価され、全国各地の美術館等に所蔵されています。

昭和63年(1988)茨城県近代美術館の開館を機に、東京下落合にあった彝のアトリエを完全復元し、中村彝会や彝を慕う人たちの集めた資金を県に寄託して美術館敷地内に新築されました。

大きな木々に囲まれた緑の空間に建つ76㎡の瀟洒な建物です。

安定した自然光が長時間差し込むように北側の天窓が大きく開けられています。

アトリエ内には椅子やソファー、テーブル、イーゼルなど生前に使用していた遺品がそのまま置かれています。

作品の中にも描き込まれているのもあり、往時の雰囲気が偲ばれます。

中村彝アトリエ 水戸市千波町東久保666-1 入館無料
開館/火~金曜日 午後1時~3時 土・日曜午前10:30~午後3時
休館/月曜日(休日の場合はその翌日) 年末年始

前掲の彝の肖像は、3歳年下の彫刻家堀進二(1890~1978)が手がけました。太平洋画会や新宿中村屋を中心とした青年芸術家グループで彝と一緒でした。像の高さは約1.3メートル、像本体の重さが約300キロの大作です。
茨城県近代美術館所蔵の彝の作品の一部をご紹介します。(所蔵展で撮影)

自画像 明治42年(1909)頃 レンブラントに傾倒したこの時期には暗褐色を基調とした自画像を6点ほど描いています。

目白の冬 大正9年(1920) アトリエの裏にあった元結い工場を描いた作品、闘病中ながら小康を得た冬晴れの午後に窓の外の景色をスケッチしたものです。

裸体 大正5年(1916) 新築した下落合のアトリエに引っ越した8日後から、制作意欲に溢れこの作品の制作に取りかかったとされます。

ところで「彝」という漢字は、古代中国の宗廟(神殿)に供えられた祭器を意味し、「人のつねに守るべき不変の道」といった意味で使われます。(goo辞書)
中村彝の略歴です。
明治20年(1887)旧水戸藩士の中村順正、よしの第5子として現在の水戸市金町(元:寺町)に生まれました。翌年には父を、11歳で母を亡くし、陸軍軍人の長兄を頼って上京し軍人を目指して陸軍幼年学校に進みますが、17歳の時に肺結核を罹患し、退学を余儀なくさせられます。

寺町の旧町名石標が建つ辺りには五軒小学校があります。

アトリエでの制作風景は、中村彝アトリエの展示写真より
明治44年(1911)新宿中村屋の相馬夫妻の厚意で中村屋裏のアトリエに転居し、夫妻の子供たちをモデルにした秀作を相次いで発表しますが、相馬家の長女俊子との仲を反対されて大正5年(1916)支援者の援助で建てた下落合のアトリエに移ります。

なおこの下落合のアトリエは仲間の画家たちの手で保存されてきましたが、平成25年(2013)当時の天井、床などの部材も使用して建築当初の姿に復元され「中村彝アトリエ記念館」として開館しました。写真/新宿区ホームページより

中村彝アトリエ記念館 新宿区下落合3‐5‐7 入館無料
開館/AM10:00~PM4:00 休館/月曜日(休日の場合はその翌日)年末年始


早くに両親や兄弟を亡くし天涯孤独といわれた彝でしたが、後援者や友人に恵まれて短い一生を力強く生き、いま生まれた地で安らぎの眠りについていることでしょう。

死の直前の1923~24年に描かれたという「頭蓋骨を持てる自画像」(大原美術館蔵)です。この代表作に描かれた痩せこけた彝の、落ち窪んでいても穏やかで澄み切った眼が印象に残ります。