顎鬚仙人残日録

日残りて昏るるに未だ遠し…

今どきの花など…空梅雨が心配です

gooブログから引っ越してまいりました。季節の花、水戸の観光、近在の史跡などを写真でご紹介させていただきますので、よろしくお願いいたします。

 

さて、梅雨入りしたと思ったら真夏日の好天が続き、湖沼の水不足のニュースもチラホラ…コメ不足が騒がれている状況なので、今年米の収穫に影響が出ないように願うばかりです。

このサクランボはソメイヨシノの実です。仙人が子供のころは、木に登って口を紫にして食べたものです。黒く熟した実は果柄から離れて地面に落ち、一面が濃紫色になっていました。

 

紅葉したような葉を雑草の間に見つけました。調べたら北米原産の外来種アメリカフウロアメリカ風露)の実でした。赤い縁取りの葉が目を惹き、上向きの鞘のような実は熟すとめくれ上がりその勢いでタネを飛ばすそうです。

アメリカフウロの花です。日本古来の薬草ゲンノショウコに似ていませんか、同じフウロソウ属の多年草で、いまは各地で野性化しています。

 

海岸の波音が聞こえる場所でムラサキカタバミ(紫片喰)が咲いていました。黄色いのはコマツヨイグサ(小待宵草)、別名月見草の小型種でどちらも外来種です。

 

ホタルブクロ(蛍袋)が朝露に濡れていました。地下茎とこぼれ種による結構強い繁殖力のようで庭のあちこちで姿を出します。

 

こぼれ種が飛んできたのでしょうか、植えた覚えのない場所に咲いていた花を調べてみたらカンパニュラアルペンブルー、こぼれ種で勝手に増えると出ていましたが、どこから飛んできたのでしょうか。

 

シノグロッサムは中国原産の園芸種、ワスレナグサと同じムラサキ科です。やせ地や乾燥に強く、こぼれ種でもよく殖えるというので、そのうち野性化してしまうかもしれません。

 

最近眼にするようになったマンテナは、ヨーロッパ原産の帰化植物で、江戸時代末期に園芸用として渡来しましたが、いまは完全に野性化し雑草の中で勢力を拡げています。

 

雄しべと雌しべの形が面白いニゲラ(クロタネソウ黒種草)です。地中海沿岸などに自生するキンポウゲ科一年草、花弁は退化し花弁のように見えるのは萼片で、茎苞と呼ばれるトゲのような葉が花を包んでいます。

花が終わった後のふくらんだ果実の中には。真っ黒い光沢のあるタネが入っているのが名の由来です。

 

ユウゲショウ(夕化粧)もいたるところで眼にしますが、これも北米南部などを原産とする帰化植物です。マツヨイグサの仲間で夕方近くに開花するので艶っぽい名が付きましたが、今は一日中咲いています。

 

イトバハルシャギク(糸葉春車菊)は北米原産の多年草、今はコレオプシスザグレブの名の方で知られています。

 

嬉しいことに在来種のドクダミです。古くから生薬や民間薬として利用されてきました。名前には毒矯め (どくため) の意味があり,また馬の十種の病に効くという言い伝えから、生薬名を「十薬(じゅうやく)」ともいいます。   ※矯める(ためる):悪いものをよくする

梅雨のころ目に付く…似たような花


キョウカノコ(京鹿ノ子)は、シモツケソウ属の多年草で細かな花の集まりが京染めの鹿の子絞りに似ていることから名付けられました。


似ているシモツケ(下野)はシモツケ属の落葉低木、下野(栃木県)で見つかったことが名の由来とされています。


小さい花がびっしりと…よく似ています。


ヒルガオ(昼顔)は、朝咲いて昼に萎んでしまう朝顔に対して昼咲いているので名付けられました。


ほとんど見分け付かないハマヒルガオ(浜昼顔)は、自生地が海沿いなのと葉の違いで区別できます。


ノイバラ(野茨)はいわゆる野ばらで、日本に自生するバラの原種です。強健な性質のこのノイバラの棘なし品種が、バラ接ぎ木の台木に使われます。


テリハノイバラ(照葉野茨)は名前の通り、葉にツヤがある品種でこの辺では海沿いでよく見られます。

このキク科のお馴染みの花は、どちらもすっかり日本の自然に溶け込んでいますが、侵略的外来生物ワースト100に指定されています。

ハルジオン(春紫菀)はキク科ムカシヨモギ属、あまりにも各地で見慣れていますが、大正時代に渡来した北米原産の外来種です。


ヒメジヨオン(姫女菀)も北米原産で同属の植物、明治時代に渡来しました。3月くらいから咲き始めるハルジオンに対して遅れて5月頃からヒメジョオンは咲き出します。


よくいわれる見分け方は…茎が中空なのがハルジオン、ヒメジョオンの茎の中は白い髄(写真右)が入っています。二つを並べてみると白い舌状花のより細い方がハルジオンというのが分かります。


マツヨイグサ(待宵草)は月見草ともいわれていましたが、月見草は別種で赤い花が咲きます。また竹久夢二作詞の♪待てど暮らせど 来ぬ人を 宵待草の やるせなさ♪から宵待草ともいわれます。南米原産で明治時代に渡来しいまは各地で蔓延っています。


コマツヨイグサ(小待宵草)も南米原産の外来種、小型の黄色い花を夜咲かせ朝には赤くなって萎んでしまいます。この辺では海沿いなどで群生をつくり要注意外来種として駆除対象になっています。
 

こちらは園芸種のヒメツキミソウ(姫月見草)、環境に馴染んでくれば間もなく野性化してくるかもしれません。


最近あちこちで眼にするヒルサキツキミソウ(昼咲月見草)、北米原産で観賞用として渡来し今では完全に野性化しています。アメリカ帰りの知人から現地でもよく見かけ、ライスボウル(rice boul ご飯茶碗)とよばれていたと聞いたことがあります。


番外編です。
公園のクロガネモチ(黒鉄黐)に赤い実と花が一緒に付いていました。去年生った実が鳥に食べられずに残ったところに今年の雌花がもう咲いています。


鳥類を捉えるトリモチ(鳥黐)が樹皮からとれるモチノキの仲間で、葉や幹がクロガネ(黒鉄)色というのが命名説ですが、語呂合わせで「苦労がなく金持ちになれる」として庭木などに人気の樹木です。


ところでクコロガネモチは、実が生るのは雌株だけの雌雄異株なので、観賞用に植える庭木や公園樹には雌株だけを植えますが、雄花の咲く雄株がないのに実が付くのは不思議です。遠くの雄株から花粉が運ばれるという説が載っていましたが、見渡す限り雄株は見当たりません…。

群生する植物…悪役ばかりではありませんが

「群生」を広辞苑で引くと、「同種類の植物が一ヵ所に群がり生えること」と出ています。対して「群落」は、「異種の植物で形成される生物共同体」…。ということで今まで見かけた植物の群生をまとめてみました。


クルマで走っていてすごい繁殖力に目を見張りました。アレチウリ(荒地瓜)、北米原産の外来種で、昭和26年(1952)静岡県清水港で見つかり、その後各地の植物を覆い尽くすように拡がり、その土地の植生を大きく変えてしまうため「日本の侵略的外来種ワースト100」になっています。


街中の水路の壁にびっしり生えているヒメツルソバ姫蔓蕎麦)は、ヒマラヤ原産の外来種、園芸サイトなどでも販売されていますが、繁殖力が強いためいろんな場所で目にします。


公園で眼にしたヒメリュウキンカ(姫立金花)、非常に強健な性質で増えすぎて困るという話もよく聞きますので、どこからかこぼれ種が飛んできたのかもしれません。和名が付いていてもヨーロッパ原産の外来種です。


ムラサキツメクサ(紫詰草)は牧草として渡来し、公園での座布団替わりや幸せの四つ葉探しのクローバーの名で親しまれています。


コメツブツメクサ(米粒詰草)は、シロツメクサに似て米粒のように小さいので名前が付けられた外来種、サラダなどの食用にもなるそうであまり嫌われてはいないようです。


こちらは悪名高きオオキンケイギク(大金鶏菊)、最初は工事後の法面緑化などに使われていましたが、あまりの繁殖力で現在は特定外来生物に指定され、栽培などが一切禁止になっています。


偕楽園公園の一部にも侵略の群生が見られますが、完全に駆除するのは難しいようです。


最近増えてきたヒルザキツキミソウ(昼咲月見草)は、北米原産で観賞用として渡来したのがいま各地で野生化しています。可憐な姿なのでそれほど目の敵にはされていないようですが。


在来種のミズキンバイ(水金梅)は水辺の公園でこんな群生を見せていましたが、年々数が減り今は見る影もありません。全国各地でも水質の悪化や水域の埋め立てなどで消滅した地域もあり、環境省の「絶滅危惧Ⅱ類」に指定されています。


春の七草のひとつで、ペンペン草という名で知られている在来種のナズナ(薺)の群生と思いましたが、あまりにも勢いが強いので生った実をよく調べたら、外来種マメグンバイナズナ(豆軍配薺)のようでした。こんなものまで外来種に置き換わられようとしていました。

群生とは言わないかもしれませんが、河岸段丘上にある偕楽園の南側の沖積層は、桜川沿いに緑地帯が広がる偕楽園公園となり、数年前には季節の花を植えたお花畑になっていました。(過去写真より)


コスモス 2019


ヒマワリ  2017


ジニア(百日草) 2018


キバナコスモス  2019


またある年は、同じ場所に嬉しいことに在来種の野草ホトケノザ(仏の座)がびっしりと群生をつくっていました。これらのお花畑は現在植えられていませんがその理由はわかりません。

現在見られる群生は、ほとんど外来種が圧倒的に強い繁殖力で主役の座を占めているのが現状です。肩身の狭い思いをしている在来種の中には駆逐されそうな種もありますので、親しまれてきた日本の四季の姿も変化していくのは避けられないようです。

大河ドラマ「べらぼう」…11代将軍家斉誕生


いま放映中のNHK大河ドラマ「べらぼう」では、幕府公認の遊郭吉原を取り巻く浮世絵版元の世界と、10代将軍徳川家治時代の政略渦巻く幕府内部を舞台に、蔦屋重三郎が様々な事件に巻き込まれていく様子が描かれています。  大河ドラマ写真はNHKプラスより借用しました。


5月25日の第20話では、11代将軍に一橋家の豊千代の選ばれた場面が出ていましたが、ちょうどいま茨城県立歴史館では、一橋家の12代宗敬(むねよし)氏から寄贈された資料を収納する一橋家記念館内で、豊千代の父親である一橋徳川家2代当主の徳川治済(はるさだ)に関する展示が行われています。


展示品の中から豊千代関係の資料をご紹介します。


安永8年(1779)10代将軍家治(いえはる)の子、家基(いえもと)が死去しました。家治にはほかに男子がなく、一橋家の治済の長男、豊千代が家治の養子となり将軍嫡子となりました。


豊千代を将軍の養子とするという極めて極秘の「隠密御用」を、伝達された一橋家の家老の田沼能登守意致(おきむね 田沼意次の甥)が記したものです。
一橋家当主の民部卿治済は承知しているでしょうが、同役の水谷但馬守勝富にも知らせてもいいかなど確認する慎重な様子がうかがえます。

将軍の養子が決まった豊千代が一橋家から江戸城への登城ルートなどを、一橋家の家老水谷但馬守と田沼能登守から老中へ伺いを出しています。それに対して老中田沼主殿頭意次(おきつぐ)は老中間で伺いを評議し、その結果を伺いの書に付け札で返答しています。

2条目では、当日の流れを稽古しておきたいという問いに、すでに指示があり稽古は済んだという返答、4条目では豊千代の父の治済も登城する場合は、不時登城になるので書付などで将軍の承諾が欲しいと伺っています。


当時の古文書に付けられた貼り札、貼ってある場所によって呼び名や役割の違いがよく分かりました。

当日の式次第について老中から渡されたものを、一橋家の家老田沼能登守意致が書き写したものです。

治済と豊千代が並んで座り、将軍家治から養子になる旨が伝えられ、刀の拝領など養子となる儀礼が行われました。




寛政7年(1795)9月に、11代将軍になった家斉(いえなり)が父治済の隠居する神田屋敷に立ち寄った際、家斉から治済が拝領したものです。拝領する前年(寛政6年 甲寅年)4月下旬に雑司ヶ谷鷹室山荘で大鷹が産んだ卵ということが箱に裏書されています。

親子でありながら子は将軍に、父は平伏して拝領品を受け取る姿が目に浮かぶようです。
治済は家斉から従二位権代納言、さらに従一位という官位と准大臣という官職を与えられ御三家としては異例の昇進を重ね絶大なる権力を手に入れたといわれています。

田沼意次が幕政を指揮したこの時期は、江戸時代後期の文化が花開いたときでした。意次には家治の長子家基毒殺の噂や、嗣子問題でも謀をめぐらしたともいわれ、天明4年(1784)長男で若年寄の意知(おきとも)が城内で刺殺される事件も起き、天明6年(1786)には将軍家治の死を機に意次は罷免されます。翌年11代将軍の家斉の代になると、蟄居を命じられて所領の相良藩まで没収されてしまいます。

後を継いで30歳の若さで老中首座に就いた松平定信は、8代将軍吉宗の孫で次期将軍の候補でもあったのが田沼意次の姦計で奥州白川藩主にさせられたということもあり、田沼時代の政策を一新し、緊縮財政の実施と風紀の粛清などを掲げた寛政の改革に突っ走るのでした。



能を好んだ一橋治済は能舞台まで作ったほどで宝生流シテ方の稽古にも励みました。能面が納められていたという梨子地鼈甲金銀花菱葵紋散蒔絵手箱が展示されていました。



茨城県立歴史館 「一橋徳川家2代当主 徳川治済展」  6月15日(日)まで

夭折の天才画家…中村彝(つね)アトリエ (水戸市)


大正13年(1924)に37年の生涯を閉じた、水戸市出身の洋画家中村彝…若くして肺結核に冒され、絶えず死と隣り合わせありながら、描くことへの欲求に突き動かされるかのように短い生涯を駆け抜けました。その作品は現在に至るまで高く評価され、全国各地の美術館等に所蔵されています。


昭和63年(1988)茨城県近代美術館の開館を機に、東京下落合にあった彝のアトリエを完全復元し、中村彝会や彝を慕う人たちの集めた資金を県に寄託して美術館敷地内に新築されました。


大きな木々に囲まれた緑の空間に建つ76㎡の瀟洒な建物です。


安定した自然光が長時間差し込むように北側の天窓が大きく開けられています。


アトリエ内には椅子やソファー、テーブル、イーゼルなど生前に使用していた遺品がそのまま置かれています。

作品の中にも描き込まれているのもあり、往時の雰囲気が偲ばれます。


中村彝アトリエ 水戸市千波町東久保666-1  入館無料
開館/火~金曜日 午後1時~3時 土・日曜午前10:30~午後3時
休館/月曜日(休日の場合はその翌日) 年末年始


前掲の彝の肖像は、3歳年下の彫刻家堀進二(1890~1978)が手がけました。太平洋画会や新宿中村屋を中心とした青年芸術家グループで彝と一緒でした。像の高さは約1.3メートル、像本体の重さが約300キロの大作です。


茨城県近代美術館所蔵の彝の作品の一部をご紹介します。(所蔵展で撮影)


自画像  明治42年(1909)頃 レンブラントに傾倒したこの時期には暗褐色を基調とした自画像を6点ほど描いています。


目白の冬  大正9年(1920) アトリエの裏にあった元結い工場を描いた作品、闘病中ながら小康を得た冬晴れの午後に窓の外の景色をスケッチしたものです。


裸体  大正5年(1916) 新築した下落合のアトリエに引っ越した8日後から、制作意欲に溢れこの作品の制作に取りかかったとされます。


カルピスの包み紙のある静物  大正13年(1923) 新宿中村屋の主人相馬愛蔵から贈られたカルピスを甚く気に入り「馬鹿に旨くて、とても止める事が出来なくなり…」と手紙に書いています。

ところで「彝」という漢字は、古代中国の宗廟(神殿)に供えられた祭器を意味し、「人のつねに守るべき不変の道」といった意味で使われます。(goo辞書)

中村彝の略歴です。
明治20年(1887)旧水戸藩士の中村順正、よしの第5子として現在の水戸市金町(元:寺町)に生まれました。翌年には父を、11歳で母を亡くし、陸軍軍人の長兄を頼って上京し軍人を目指して陸軍幼年学校に進みますが、17歳の時に肺結核を罹患し、退学を余儀なくさせられます。

寺町の旧町名石標が建つ辺りには五軒小学校があります。

明治38年(1905)療養のため訪れた千葉県館山市で風景を写生し、この頃から洋画家を志し、白馬会や太平洋画会で学び、文展などで受賞を繰り返します。

アトリエでの制作風景は、中村彝アトリエの展示写真より

明治44年(1911)新宿中村屋の相馬夫妻の厚意で中村屋裏のアトリエに転居し、夫妻の子供たちをモデルにした秀作を相次いで発表しますが、相馬家の長女俊子との仲を反対されて大正5年(1916)支援者の援助で建てた下落合のアトリエに移ります。

このアトリエでは、悪化する肺結核と戦いながらも国の重要文化財指定の「エロシェンコ氏の像」などの生涯の傑作を世に出しますが、大正13年(1924)12月24日、喀血のため37歳で亡くなりました。

なおこの下落合のアトリエは仲間の画家たちの手で保存されてきましたが、平成25年(2013)当時の天井、床などの部材も使用して建築当初の姿に復元され「中村彝アトリエ記念館」として開館しました。写真/新宿区ホームページより


中村彝アトリエ記念館   新宿区下落合3‐5‐7  入館無料
開館/AM10:00~PM4:00 休館/月曜日(休日の場合はその翌日)年末年始


なお彝の墓所は、水戸市八幡町にある祇園寺にあります。水戸藩2代藩主徳川光圀公の開基による曹洞宗の古刹です。


早くに両親や兄弟を亡くし天涯孤独といわれた彝でしたが、後援者や友人に恵まれて短い一生を力強く生き、いま生まれた地で安らぎの眠りについていることでしょう。



死の直前の1923~24年に描かれたという「頭蓋骨を持てる自画像」(大原美術館蔵)です。この代表作に描かれた痩せこけた彝の、落ち窪んでいても穏やかで澄み切った眼が印象に残ります。

風薫る5月…庭や道端の花など

春の花もひと段落してもうすぐ梅雨宣言が出そうなこの時期…、庭や道端、公園などの花と会話をしてきました。


フタリシズカ二人静)がヒトリシズカより1か月も遅く咲き始めました。共にセンリョウ科に属する近縁種です。2本の花穂を静御前とその亡霊の舞う姿になぞらえたものといわれますが、花穂の数が多く三人や五人の姿も見られますので、静かでなく姦し(かしまし)とでも言うのでしょうか。


シャリンバイ(車輪梅)は海の近くに自生し、乾燥や風に強いため、公園や街路に植樹されています。


チガヤ(千萱)はイネ科、白い穂が出る前の若芽をツバナといって少年時代によく食べました。


最近見かけるようになったオルラヤはヨーロッパ原産のセリ科、レース模様の白い花が上品ですが、我が家からのこぼれダネで隣地の空き地に何株も出てしまいました。


雑草の中に咲いていたオオアマナ(大甘菜)、甘いという名前でも有毒植物です。鱗茎が甘く食用にできるユリ科のアマナに似て大きめの花だから命名されましたが、紛らわしいですね。


コマツヨイグサ(小待宵草)はマツヨイグサの仲間で小型のもの、周りを埋める小さな黄色い花はコメツブツメクサ(米粒詰草)でどちらも外来種でどんどん増えています。


公園でチチコクサ(父子草)の群生…母子草に比べるといたって地味なのは人間社会と似ています。


水辺を埋め尽くす白い花はクレソン、別名オランダ辛子です。主に葉を食べますが、花も食用になるそうです。


人の顔?ミッキーマウス?…江戸時代に人面草とよばれていたこともあるパンジー…、これはビオラですがどちらもヨーロッパや北米を原産とする三色スミレの原種を交配してつくられ、一般的には花の大きさが4㎝未満をビオラというようです。


ムラサキの名が付くのに白い花も咲く2種…、ムラサキツユクサ(紫露草)はアメリカ大陸原産ですが現在では野性化が進んでいるようです。園芸品種の白花はムラサキツユクサ白花として出まわっています。


シラン紫蘭)はもともと草原などに自生していましたが、現在野性のものは絶滅危惧種です。栽培種の野性化も見られ判別は難しいようですが、白花はシロバナシラン(白花紫蘭)という名前で園芸サイトに出ていました。


ジギタリスにはいろんな色があるようですが、紫色の花のそばに今年はピンクの花が咲き出しました。


芝生をびっしりと覆う3種の外来種、黄色い小さな花はコメツブツメクサ(米粒詰草)、白い花はシロツメクサ白詰草)、すっと伸びているのがツボミオオバコ(蕾大葉子)…他の植物は姿も見えません。

外来種がどんどん増えていますが、特にこのオオバコの仲間の2種は環境省指定の要注意外来生物に指定されています。

開花してもつぼみのように見えることから名が付いたツボミオオバコ(蕾大葉子)は、繁殖力が極めて旺盛で空き地や道端をすぐに覆い尽くしてしまいます。


細長いへら状の葉から名前が付いたヘラオオバコ (箆大葉子)は、ヨーロッパでハーブとして食用や薬用に利用され、家畜用飼料としても栽培されているということですが、その強い繁殖力で在来種の生息環境を奪っています。


公園の中でヘラオオバコ (箆大葉子)とツボミオオバコ(蕾大葉子)が我がもの顔で共存しています。


在来種のオオバコ(大葉子)は、カエルッパといって花柄を引っかけてどちらが切れるか引っ張り合って遊んだ記憶が残りますが、場所によってはあまり見かけなくなっています。



気分を変えて偕楽園公園の月池橋に咲いていたハコネウツギ(箱根卯木)、太平洋岸に自生していますが名前に付いた箱根での自生は見られないそうです。


エゴノキも今を盛りに咲いていました。長い葉柄を持つ花が枝の先にぶら下がるように咲く姿から英名ではJapanese snowbell といわれます。


偕楽園公園のウメも鈴生り…来月中旬に行われる梅落としでは豊作が期待できそうです。


まもなく「梅の実が熟す頃に降る雨」…「梅雨」が北海道を除いた日本列島を覆います。ジメジメしたこの嫌な季節も、水資源や農作物には欠かせない自然の仕組みになっているので、降り過ぎないことを願って今秋の豊作と米不足解消を期待しましょう。

千波湖(水戸市)周辺…パークPFIで賑わい拠点の整備



水戸市の真ん中にある千波湖は、都市公園としては世界第2位の広さを誇る偕楽園公園の一角を占め面積約33.2ha、江戸時代には現在の約3.8倍の大きさで水戸城の南側を守る大きな水堀の役目をしていました。



いまは一周3Kmの広い遊歩道が整備されていて、左側は散歩、右側はジョギングやサイクリングする市民の方々にとって絶好のコースになっています。


水戸市ではこの千波湖の西側で駐車場などに利用されていた黄門像広場周辺の約1.2haを整備し、新鮮野菜を販売するマルシェや、カフェ、レストラン、ベーカリー、サウナやスポーツラウンジなどを新設して賑わい拠点つくりの工事を始めています。





この事業は、民間事業者に整備と運営を任せる「パークPFI」方式を採用し、事業者は大和リースアダストリア、横須賀満夫建築設計事務所が公募で選ばれました。(上記外観イメージ:出典/水戸市



パークPFI(Private Finance Initiative(民間資金主導))とは、都市公園の施設を公募選定された民間事業者に委託し対象公園施設の設置、管理を任せる制度で、民間資金やノウハウを活かして公園整備が進められ、その収益を公園の維持管理に還元することを条件に、建ぺい率(2%)の引き上げなど特例措置が適用されています。



この制度は財政難やノウハウ不足を解決するひとつの手段として脚光を浴び、いま全国で135件もの施設が運営されているそうですが、公園の公共性の低下、特例措置による契約期間の長期化(30年)、市側から運営コントロールができないなどの問題性も抱えているようです。


この施設の中にある飲食業の開店は、周辺の既存施設との兼ね合いも問題になるようです。


2010年2月に水戸市が開設した好文カフェは、ロケーションがいいので何度か利用しましたが、新しい施設の完成予想図に載ってないようなので撤去されるのでしょうか。


カフェの屋上には希望の鐘があり若いカップルが澄んだ音の鐘を鳴らしていました。


また、すぐそばには2023年4月に「The迎賓館偕楽園別邸」が、茨城県とアイ・ケイ・ケイホールディングス(本社/佐賀県)との「パークPFI」による契約で開店しています。結婚式場やレストランとして営業していますが、まだ利用したことはありません。


駐車場側にある「とう粋庵」はモダン懐石で知られていましたが、3月に好文橋の近くに移転したという情報が出ていました。


整備区域に入っている水戸藩2代藩主徳川光圀公像と9代藩主斉昭公と七郎麿(最後の将軍徳川慶喜公)の像も落ち着かない様子でした。どちらも移設せずにそのまま新しい施設の中に収まるようです。


水戸城に視線を向けた巨大な徳川光圀公像は高さ5.6m(台座込み)、昭和59年(1984)に市民や多くの人々の寄付によって建てられました。彫刻/小森邦夫 


平成11年(1999)に建てられた高さ4m(台座込み)の徳川斉昭公・七郎麿(慶喜公)像は、工事区域の中に入っているので柵外から撮りました。彫刻/能島征二


湖畔に置かれたD51蒸気機関車は、「デゴイチを守る会」の方々の奉仕でいつもピカピカです。


なおボーリング場跡地には、広い駐車場ときれいなトイレが既に完成していました。


釣鐘のように下向きに咲くエゴノキの花が満開でした。


都市公園の施設建ぺい率は原則として敷地面積の2%のところ、公募対象公園施設の場合は合計10%上乗せできる特例措置が適用になるそうですが、周辺にはまだ広大な緑地がたくさん残っておりその点の心配はなさそうです。


すでに工事現場は仮囲いで覆われています。来年春の完成を目指していますが、市民や観光客に支持され親しまれる施設になることを切に願っています。